



個展「すじがねと縁日」
2023年10月14日(土) - 11月12日(日)
TALION GALLERY
神さま、神さま
私の願いは
いい筋肉、いい家、笑顔
死ぬのは悪いことです。
骨が折れて、とても痛い。
でも、それはとても昔のことで、いつのことだか、忘れてしまった。
いつの間にか、折れた骨は、そのまま、関節のようになってしまった。
もしかしたら、私たちの膝や肘や、背骨も、折れた骨だったのかもしれない。
さて、どうなるだろうか、、、
ニャオ!
I
真実を語るのが神話であり、実際の物語はすでに単なる曲解にしかすぎない。
(ミルチャ・エリアーデ『永遠回帰の神話―祖型と反復』1963.)
2019年のこと。当時私は「水戸のキワマリ荘」というオルタナティブスペースの管理人をしていた。 随分長い間続けてきたのでそろそろ身を引こうと考え、最後の自分の個展として「他山の空似」という展覧会を計画した。それは茨城県水戸市の歴史、戦争、震災、身近な人の活動、個人的な出来事などを区別せず混ぜ合わせるようなものだった。アイデアはまだなかったが、この水戸という場所で「歴史」を入れるならやはり会沢正志斎の名は外せまいと考え、大した知識もないまま、とりあえずラフに作っていた展覧会チラシに彼の名前を入れた。 翌日、あまり会うことのない兄から突然連絡があった。実家の猫が死んだとのこと。まだ若い猫だった。その翌日、私のパートナーであるMがスケートボードで大けがをして、右足の脛の骨を酷く骨折した。 …これはもしや、この水戸の地で軽々しく会沢正志斎を扱おうとした「バチ」が当たったのだろうか…? いやいや、そんなことはあるはずがない…、全てはたまたま、偶然に過ぎない。本当の乱数には偏りがあり、人の素朴な感覚に反するものなのだ。偶然の出来事に何らかの意思やら意味やら物語やらを見出してしまうのは人間の悪い癖であろう…。
……、取り急ぎ、私は会沢正志斎先生の墓の所在を調べた。すると、先生の墓は私が住んでいる場所のほど近く、私の母方の先祖と同じ墓地にあり、しかも私の家の 墓のすぐ後ろにあった。そういえば、昔から墓場の入口に「会沢正志斎の墓」と書かれた看板があり、子供のころ墓参りに来るたび目にしていたことを思い出した。 翌日、病院に担ぎ込まれたMに必要な物を彼女の指示に従い届けに行った。彼女は黄緑色の顔をしていたが、ひとまずは落ち着いた様子だ。 Mは、最近はちょっと言っただけの願いが叶いすぎて怖い、こないだは怪我をするのは面白い、と友達 に言ってしまった、そしてこの日は、家を出る前に自分の神棚(気に入ったもの、父の遺品、友人にもらったものなどを並べた棚)の前で、今日は面白いことが起こる、と言った。だから怪我をした。それから、筋金入りのスケーターになる、とも言った。だから本当に足の骨に金属の棒を入れることになってしまったのだ、わたしの神さまは日本語が苦手で、人にとって良いことと悪いことの区別もないのか もしれない、だから言葉には気をつけようと思う、と言って笑った。Mは私の考えとは全く異なる観点から因果を見出していた。「筋金入り」の比喩が分からない神さまとは、思わず私も笑ってしまった。
Mの言う神さまとは、彼女が子供の頃なぜか異常に興味を持っていたアメリカ先住民の神さまである。 彼女はよく「過去も未来も同じ袋に入っている」と言うので、アメリカ先住民のホピ族の言葉には過去と未来を表す単語がないらしいと伝えると、とても喜んだ。(実際には、ホピ語に過去と未来を表す単語はある)
後日、会沢正志斎先生の墓を訪ねた。それは一般のものとは違って大きく、記念碑のようなものだった。 建築用の鉄パイプで周りを取り囲まれ、支えられている。奇妙に思いよく見ると、根元から割れていて、 一度は倒れたであろう形跡があった。おそらく先の震災が原因だろう。 そういえば、正志斎と共に水戸の思想を作った儒学者、藤田東湖は安政の江戸地震で家屋の下敷きになり亡くなってしまった。水戸藩主徳川斉昭はその地震の原因を西欧列強の妖術によるものだと信じていたという。
Ⅱ
「暗い暗いトンネルを這い進むような30年だった」 Mさんは2023年現在、60代後半の女性である。 彼女はとても長い時間をかけ、かつて茨城県某所に存在した小さな寺院をたった一人で再建した。
Mさんは元看護師だった。彼女はこの土地に元々縁も所縁もなく、嫁入りでこの地にやってきて、そ れまで妻として、母として、看護師としての務めをただ懸命に果たしてきた。しかし30年前のある早朝、 Mさんはその後の彼女の運命を変える不思議な声を聴いた。
「ゴンダイソウズホウイン・・・」と2回、低く威厳のある声だった。
その後、夫の曾祖父からの話や、度重なる不思議な「おしるし」を手がかりとした独自調査の結果、この家が室町時代から天保14年(1842年)まで存続した神宮寺(神社と仏閣が習合した施設)だったことが明らかとなった。Mさんはこの仏閣を再建する使命を感じ、自宅を移築、空いた土地を整えた。超常的な物事をあまり信じなかった夫も不思議と反対はしなかった。それからの30年、近所から根も葉もない噂を立てられ、様々な妨害を受けたMさんだったが、彼女は決して諦めることなく、ただひとり孤独に先祖と神仏の供養を続けた。そして遂に、2016年2月27日18時頃、車で出かけようとしていた彼女の手から、白い霧のような光 が出現する。それはきっと30年間神仏の供養を続けた彼女への恩返しであり、宇宙のパワーみたいなものだろう、とMさんは言う。
彼女の不思議な力によって、膝が痛くて歩けなかった人がその場で歩けるようになったり、脳内の血栓が 消えてなくなった人もいた。 約8年の活動を通じて、Mさんの力でそれらの重い病状が快復へ向かった人が大勢いるのである。
彼女はとても明るく朗らかである。施術しているとき、自身の手や患部が「ふかしたサツマ(イモ)みたいにねっとりとあったかくなってくる」と例えるのが楽しい。いくら施術をしても彼女自身は全く疲れることがなく、毎日夕方頃になると「腰のあたりがふかしたサツマみたいにあったかく」なり、宇宙からパワーが補給されるのである。 また、決まった額の金銭を取ることはなく、近所の人はお金の代わりに野菜などを持ってくることもある。
Mさんはただ不思議な夢やおしるしに従い、供養と探求を続けてきたのみで、僧侶の資格を持たない。彼女の力を認め、最初の患者となったある女性にも霊感があり、Mさんはこの女性から色々なことを学んだ。この女性はある晩、多くの人が列をなしてこの寺院を訪れる夢を見たという。Mさんはこの夢がいつか現実になるだろうと考えている。当然ながら目的は利益や名声などではなく、近い内に、現代医学では治せない謎の病を抱える人々が急増するとMさんは予想しており、彼らを救いたいと願っているのである。彼女はこの宿命を受け入れ、人の心と病の関係について日々悩み、考えながら手探りの実践を続けている。
Ⅲ
私の父は映像機器会社の設計技師を務めていた。彼は子供の頃から機械の解体や修理に興味を持ち、朝鮮戦争の時はアメリカ軍から払下げられた無線機を 修理して朝鮮軍に売りつけるというアルバイトをしていた。その後就職した会社では映像機器だけでなく様々なジャンルの設計を手がけた。コピー機の内部機構であるとか、マイナスイオンの発生装置なども設計したことがあるという。父は昭和12年(1937年)生れ、かの国家総動員法が施行されるのはこの次の年のことである。彼は徹底した近代科学主義者であり、あらゆる宗教やオカルトの類、また疑似科学に対して批判的な人間だった。マイナスイオンについては自ら設計していながらその効果を全く信用していなかったという。25年前に定年退職を迎え、ほとんどの時間を家で過ごすことになった父は、自宅の庭を作業場にして様々なものを作った。レコードプレーヤーやトイレの棚、自転車やラジオの修理、庭先の小さな畑などなど。父が作るものは大体平凡で実用的なものだったが、このアルミと木でできたパチンコはその中でも少し異色な作品であった。恐らく、父が子供のころよく遊びで作っていたものを、現在の自分の技術でアップデートしてみようと考えたのだろう。なかなか凝った作りで、骨組みの鋸状の部分でゴムの張りを調節し威力を変えられる仕組みを持っている。時々彼はこれを持って庭の周辺をうろつき、大嫌いな野良猫やカラスを追い払う為に使った。父は「最大威力を出して、十分重い弾を使えば猫くらいなら殺せるだろう」と言って自慢した。もちろん本当には殺していない。弾丸は小石やドングリなどの軽いものだけを使った。
私は父が死んだらこのパチンコをもらうつもりだったが、ある時、もう使わないからと自ら譲ってくれた。父は現在、軽い認知障害を発症し、短期記憶を留めておけなくなった。もう庭の周りをうろつくことも、何かを作ったり修理したりすることもない。今では飼っている猫と寝食を共にするのが彼の生きがいである。
少し前、私は父の顔を見に実家へ行った。割と和やかに会話をし、食事を共にしたのだが、父と同居する兄によると、私が帰った数時間後にはそのことを忘れているという。私はそれを聞いて、父に会いに行った時の自分が小さな幽霊のようになって消えていくような、というか、もっと単純に言えば新しく顔を見せに行く意味がないなと思い、それから現在まで父に会っていない。
父は昔から気難しい性格で、怒りを除く感情をあまり大きく表現することがなかった。いわゆる「頑固親父」風情で、若い人が今までにない言葉を使うことによく怒り、何故か「かわいい」という言葉を嫌っていた。数年前に母が亡くなった時も、何かにつけ怒ったり慌てたりはしたが、それはも っぱら母の死の状況やその後の煩雑な手続きなどについてであり、伴侶との別れを惜しむそぶりを私たちに見せることはなかった。父は母以外の女性を知らない。
葬儀も済んで少し落ち着いたころ、父はおもむろに、母が生前季節ごとの飾り付けをよくしていた居間の棚の上から、漆塗りの小さな容器(あれは爪楊枝入れだったか)を手に取り、私に見せてくれた。この容器に母の遺灰を半分くらいまで入れ、そこに小さな鈴をひとつ入れたのだと教えてくれた。父は耳元に容器を持ち「こうやって振ると音が鳴るんだ、いいだろ」と言った。私は「ああ、かわいいね」と応えた。彼は少し笑った。最後に会ったとき聞いてみたところでは、まだ母が生きていたころ、自分が前立腺の治療のために入院したことももう憶えていないようだった。失くしているのは短期記憶だけではないということだ。
彼はあの小さな容器のことを、中に入れた鈴のことをまだ憶えているだろうか? 次に会ったら聞いてみようと思う。
Ⅳ
腓骨を金属板で補強し、膝の上部を切り開き、脛骨の中心に金属棒を差し込まれ、「筋金入り」になっ たMは、術後の痛みで一晩中眠ることができず、翌朝痛みに耐えかね看護師を呼んだ。「強い薬だから あまり使いたくないんだけど」と断りを入れながらも、苦しむMの様子をみかねた看護師はその薬剤を 使用することに決めた。点滴によりMの静脈に薬剤が入ると、瞬間彼女の視界は、本人曰く「VRゴー グルをしたときみたいに」四角く小さく、遠くなった。
束の間、Mはベッドの横に立つ、2メートル近くある棚を真上から見ていた。彼女は棚の天板をよく観察した。次に気づくと、今度はこの棚と後ろの壁の隙間にMは立っていた。その隙間は1cm程度のはずだ。ここでもまた、見たことのない棚の背面をつぶさに観察した。この視点を得るには壁の中に入るか、身体 が1cm以下の厚さでなければならない。あり得ないことに驚いていると、また次の瞬間、今度はベッドに横たわる自分自身の姿を空中から見ていた。いったい何が起きているのかよく分からないが、足の痛みは消えており、たまらない解放感だった。そのまま病室の窓に目をやると、冴えわたる青空の下、水戸の 街々の彼方に美しい山が見える。筑波山だ。嗚呼、このまま外に出たらさぞ気持ちよかろうとMは思った。しかし同時に、出てしまったが最後、二度と戻れなくなる気がして恐ろしくなった。 やがて足に取り付けられた機械の振動に気がつき、その感覚が次第に大きくなると、いつしかMは足の折れた身体でベッドに横たわっていた。
わずか数分の出来事だったか、あるいは数十秒、それともすべてほんの一瞬のことだったかも知れない。足の痛みはとても遠くにあるように感じられた。
Mはそのまま眠った。「強い痛み止め」を投与されたのはそれきりだったので、彼女はその後数週間、傷の痛みと延々向き合うことになった。かろうじて眠れたときは、真っ白く輝く、傷や歪みの全くない左右対称の顔をした物言 わぬ自分自身の像と向き合う夢などを見た。無限とも思える苦痛の日々、Mは日本語の苦手な自分の神さまに、ケガや事故や死ぬことは面白いことではない、と伝えるため英語(アメリカ先住民の言葉は知らないので)の手紙をしたためた。リハビリも 必要だった。もし150年とか200年とか、それ位昔に同じようなケガをしていたら、二度と元通りに歩 くことはできなかっただろうし、悪くすれば感染症を併発して死んでいたかも知れないな、とMは思っ た。
約3か月の後、彼女は再びスケートボードを始めた。
Pas Pavan Powa
Puuwi Puuya-
Qeni Qalalni
Pötskwana
Naat ...Ngyaw!
「すると、どうでしょう、魔術や魔よけや鏡人のたぐいですな、とっくに時効になっているばかげた時代の迷信じみた妄想と、たいして変わりばえしないではありませんか」さらにつづいて言いかけるのを医師がさえぎった。「失礼ですが、いかなる時代であれ時効になったりはいたしませんよ。それに現代も含めて人間がものを考えている限りばかげた時代というのはありはしません―
(エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン 『廃屋』 1817.)